【一首評】女の子を裏返したら草原で草原がつながっていればいいのに 平岡直子「一枚板の青」(『外出』創刊号)

女の子を裏返したら草原で草原がつながっていればいいのに 平岡直子「一枚板の青」(『外出』創刊号)
 
この歌を見てふっと思い出したのが、今年のLOFTのバレンタイン広告だった。
その広告は二枚一組のビジュアルになっている。レトロポップなイラストで、五つ子のように髪型もファッションもおそろいにした女の子たちが描かれている。一枚目は正面からのカットで、チョコレートを持った女の子たちが並んで笑顔を見せているもの。二枚目は後ろからのカットで、女の子たちがお互いの背に手を回しながら、隣の女の子の髪をひっぱったり、背中をつねったり、スカートをめくったりしているもの。
 
私がその広告を知ったのはもう炎上しきっていたタイミングで、実をいうと、はじめに見たときは何が問題なのかわからなかった。女の子たちが、ただ仲良さげに寄り添っているようにしか見えなかったから。
「後ろで意地悪してるんだよ」という解説を聞いてもなお、上手くつながらない。
「これは"女は陰湿"、"女の敵は女"という古くさい偏見を内包しているんだよ。だからみんな正面では笑っているけど、後ろ側では隣の女の子に意地悪してるように描かれてるんだよ」……ここまで丁寧に説明されてはじめて、突然パチパチパチパチっと電気がついたみたいにわかって、うわあ、とようやくびっくりできた。
 
「女ってこえー」みたいな、むしろそれ自体が陰湿な口ぶりは、確かに、10年くらい前まではよく流通していたように思う。でもそれをこの時代に、大きな企業がまだやるなんて、という意外さと、その意図が伝わっても伝わらなくても販促にはならないだろうという不可解と、言われるまでそういう発想を全く思い出せなかった自分、という驚きがあわさって、その奇妙な遠さにくらっとした。一度バラバラにした部品を組み立て直していたらまちがえてへんな回路をつなげちゃったようで、なんだか動きがぎこちなくなる。
もう少し分析すると、私の当初のピンとこなさはこの広告ビジュアルを最初に見たのがTwitterだったということもきっと関わりが深くて、"女の子たち"という表象 + "SNS"という場 = "連帯"のメッセージ(#metoo のような)、と、これはこれで一辺倒なイメージを自分のなかに抱いていたからかもしれない。それもなんだかなあと思いつつ、いったん置いておく。
 
掲出歌の「女の子」と「草原」という奇妙な”遠さ”は、そのときの感覚を私に思い起こさせた。
 
「女の子を裏返したら」っていきなり何を言ってるんだという感じがするし、「女の子を裏返」すって、何を言ってるんだ。仮にかなり仲の良い女の子相手でも、いきなり裏返したらたぶんだめだ。関係にヒビが入る。
でも、もしもそうすることができたら、そこには草原が広がっているかもしれない。その草原には風が吹いていて、広々としてどこまでも見渡せそうだ。私にはこの草原が、妙に心地よい。
仮にこれが「花野」とか「荒野」だと別のイメージがつきすぎていて、なにか意味を取ってしまいそうになる。でも「草原」にはきまりごとがない。走り回っても、虫を観察しても、本を読んでても良い。ただぼうっとして風に吹かれているだけでもいい。その自由さもいいところだと思う。
 
現実の言語運用では「女の子」と「草原」はまず繋がらないはずで、それこそへんな回路をつなげちゃった感じになると思うのだけど、この歌にはぜんぜんまちがい感がない。I wish I were a bird.的な仮定法過去の文法がこの歌の「草原がつながってればいいのに」という願望、実際には”そうではない”、というほうの側面を強めるからかもしれない。
 
そしてまた、短歌という形式の上では、非現実が現実を軽く飛びこえる。
 
現実世界で描かれた「女の子」の裏側は、隣の「女の子」への悪意でつながっていた。だが、この歌で、女の子たちは自由な草原でつながっている。私にはなんだかそっちのほうがずっとずっとほんとうのように思える。わたしたちはお互いにお互いを裏返して、その草原で何度でも出会うことができるのだ。