穂村弘作品におけるテーマの変遷――近作評を中心として・2

mutsukimiyako.hatenablog.com

すごく間が空いてしまっていまさら恥ずかしいのですが、前回の記事の続きです。2009年から現在の穂村弘作品をざっくりと整理・解説します。
 
穂村弘作品リストについては、Twitterで協力を呼びかけ、有志のみなさまより提供いただいた情報をまとめました。ご協力いただいたみなさまに改めてお礼申し上げます。
※百首選の公開については、穂村弘さんご本人より許可をいただいております。
 
◆2009-2010年
この時期の歌も同じく子供視点の歌が多いのですが、前2年よりも文体に硬質さ、冷静さが戻ってきます。簡単に言うと、本来の(?)大人の穂村弘の使う言葉で、子供的感覚を言うことにシフトしてきます。
この時期の歌っていい歌が多くて、非常に胸に迫るものがある。
 
  • 真夜中に朱肉探してお父さんお母さんお父さんお母さん  「ひなあられ!」 (穂村弘近作百首選 46番掲載、以下付番のみ)
 
朱肉が見つからなくて、真夜中の真っ暗な中をさまよっているんですよね。明日、学校に提出しなきゃいけないプリントを忘れてた、とかで。お父さんかお母さんだったら朱肉の場所を知っているはずだから、何度も呼びかけている。でも結局、最後までお父さんもお母さんも出てきてくれないんです。「お父さんお母さん」のリフレインで歌が終わると、お父さんもお母さんも永遠に見つからなくなってしまうような感覚がもたらされます。その永久に続く暗い不安感。
同じ連作の〈ひなあられ指にくっつくゆうやみの小田急相模原は無人駅〉(48)も良い。エッセイ等に書かれてますが、相模原は穂村弘が小学生時代を過ごした場所です。ノスタルジーとあいまって、絶妙な暗さが滲んでくる。
 
ひとつ、この時期で転機になっていると感じられるのが「新しい髪型」という連作です。

 

  • 海光よ 何かの継ぎ目に来るたびに規則正しく跳ねる僕らは(50)  「新しい髪型」

 

一連の最初に置かれたこの歌に象徴されるように、大人とも子どもともつかない微妙な「継ぎ目」の地点から、〈母〉を詠った連作です。
連作序盤に、〈クリスマスの炬燵あかくておかあさんのちいさなちいさなちいさな鼾〉という、子どもの視点から詠まれた母の歌があり、またその数首後に〈あ、一瞬誰だかわかりませんでした 天国で髪型を変えたのか〉という歌がある。こちらは現在から見て、亡くなったお母様だと思います。このように過去と現在、子どもと大人の目線とがこれまで以上に複雑に絡まり合って、一人の〈母〉を描き出そうとしていることがわかる。
亡くなったお母様が天国で髪型を変えた、これがひとつ象徴的な出来事として、子どもにせよ大人にせよ「僕」の時間が前に動き出す……。
記憶の中に留まるばかりだった〈お母さん〉が新しい姿を得て、〈お母さん〉も〈僕〉も独立して歩み始める、そんなイメージで読みました。

◆2011-2013
2011年以降、穂村作品において扱われるテーマが多様化していきます。あからさまな子ども主体の歌は少なくなってゆき、テーマにもモチーフにも、これまでの穂村弘にはなかった新たなテンションが増えてくる。
なかでもここ数年、震災や戦争、軍隊についての言及が増えたことは特徴的です。
2011年は震災の年でした。またこのくらいの時期から、秘密保護法案や憲法9条やら安保法案やら、政治もきな臭くなってくる。このへんの社会情勢がテーマに影響しているんじゃないかと考えられます。

「花見2011」は〈今日はまだ余震がなくてきらきらと立ったまま眠れそうなお天気〉という歌から始まる一連。といっても連作中には他にはっきりと地震が詠まれたものはなく、桜とアンドロイド、胡桃割り人形と、どことなく近未来的ですべすべした感触の歌が多い。
少し戻って2009年に 〈胡桃割り人形同士すれちがう胡桃割り尽くされたる世界〉(47)という歌がありますが、「花見2011」にはこの胡桃割り人形が再登場します。

  • アレガ胡桃カモ知レナイと瓦斯タンクをみつめる胡桃割り人形は(65)

殻付きの胡桃って、ほとんど見ないですよね。コンビニに行っても西友に行っても、可食部だけがきれいにパックされて安く売られている。"胡桃割り尽くされたる世界"というのは恐らくその現実のことで、胡桃割り人形というのは時代の遺物、無用の長物の象徴として登場している。
瓦斯タンクを胡桃のように割ろうとしている人形、って怖くて。時期から考えてこの瓦斯タンクって原発のイメージにも重なる……と言うと恣意的かもしれませんが、世界の破滅、社会の破滅の感覚が色濃く出ていると思いました。

同じく2011年の作品「チェルシー」から。下句はコマーシャルのコピーそのままなんだけど、このタイミングで「別世界」とか言われると、やっぱり、当時の感覚があるのかなと思いますね。
東京という都市はあの震災で壊れたりしなかった、見かけにはなにひとつ変わっていないんだけど、やはり何かが決定的に変わってしまったというのは、みんな感じていたことで。あんまり、そう書かれてないのになんでも震災に結びつけるのは、よくないんですけど、恐らくそういう感覚があるように思います。
次の〈さらさらさらさらさらさらさらさらさらさら牛が粉ミルクになってゆく〉(67)、この歌は怖い。穂村さんは近年の歌論で、社会がどんどん合理的になってコンビニでいつでも何でも買えて"生き延びること"は容易くなった、その合理性の暴力的な側面をよく言われるんですが、この歌はそれを端的に言ってますよね。人間のコンビニ的社会基準が、「牛」を「粉ミルク」にひとっとびで変えてしまうという。

2012年の作「蜂鳥」は、主体は中学生か高校生くらいに思えます。小学生を思わせる主体はこれまでたびたび出現していましたが、このくらいの、この年齢で書かれたものってなかったので、それがひとつ興味深い。

  • 蜂鳥、求婚、戦争が止まってる 言葉を習う窓の向こうで(69)  「蜂鳥」
  • 目の前の背に透けているブラジャーのここにたしかにあるということ(70)

「蜂鳥」は一連八首で短い連作なのですが、この作品からは"戦争"がより現実として身に迫っている感じが伝わってきます。
2003年の〈電車の中でもセックスをせよ戦争へゆくのはきっときみたちだから〉(9)の戦争はなんというか、「戦争たるもの」という感じで、より抽象性が高い。対してこちらの「言葉を習う窓の向こう」の戦争は、自分とは隔てられているとはいえ、本当にそこで行われている"戦争"だと思う。
加えて、「ここにたしかにあるということ」という実感の仕方。授業中の風景という感じで、少し茶化しているのかもしれないですが、静かなテンポながら「生」の求心力を強く感じます。

ちょっと後ろに飛びますが、2015年に発表された「ふりかけの町」という一連。ここにはかなりはっきりと軍隊のことが、しかも、子供を集めて軍隊にするという話が出ています。

  • 我が校の不良を完全にびびらせておそろしすぎる他校の不良(96)  「ふりかけの町」
  • みたこともないほどおそろしい他校の不良を蹴った他校の先生

この連作については寺井龍哉さんが以前、これらの歌が集団自衛権に関わるのではないかと、Twitterで指摘されていました。

 
それで、ああ、そうだなあ、と。
かつての穂村弘の歌というのは、前回回転ドアは、順番に』のあとがきを例に取ったとおり、空想の力を借りた言葉だった。
だからより抽象度の高い、本質的なことを言おうとしていたし、文体もそれに最適化されていたんだと思います。
その頃の"ほむほむ"を読むときの態度で臨んでいると、「ふりかけの町」もファンタジーとして読めてしまうのですが、やはりここは現実の戦争、現実の軍隊、現実の日本の政治情勢と全く関わりがないと言ってしまえば嘘になると思う。
2016年1月の短歌研究の座談会で、穂村さんが「塚本邦雄の歌の、政治批判や戦争を下敷きにしてアイロニーを繰り出すことに昔は引いてたけど、今読むとこれはほんとじゃん、って思う」といった発言をされてたと思うんですが、なんていうか、その「ほんとじゃん」って感じなのかなと思います。戦争も政治も遠い世界の出来事だったのに、いつのまにか、あれ、ほんとじゃん、って。その危機感が、穂村弘の歌に圧をかけている。

同じ連作で、〈炎天下だあれもいないみんな長渕剛のコンサートに行ったのか〉(97)。
これって震災詠なんですよね、たぶん。
いつだったか穂村さんが言ってるのを聞いたんですが、長渕剛が震災後に被災地でチャリティコンサートを開いて、ものすごい人が集まってみんな感動してた、それを見てなんか無力さに絶望してしまった……みたいな話をされていて。
そのときはあんまり理解できなかったし、だからここから言うことは私の想像で穂村さんの意見ではないのですが、長渕剛って、コミュニティ、ちょっと遠いじゃないですか。文学からといっていいのかなんというか。だから普段は聴かないし、むしろちょっと、なんとなく軽視してしまう気がするんですけど。そのコミュニティから外れていると。
でも実際、長渕剛が被災地に行って、救われた人が何万人もいた。本当に素晴らしく、偉大なことで、それゆえに、普段の自分の浅はかさを恥じてしまう。長渕を侮ってたのに、自分はなにもできてないじゃん、みたいな。そういった恥ずかしさと、その尊敬を自分の恥ずかしさに押しやってはいけない絶望感みたいなもの。
もちろん、穂村さんの言ってたことと自分の今言った感覚とは違うかもしれないんですけど……。そのお話が印象的だったし、なんとなくこの感覚は捨て置けない感じがして、百首にも入れました。

話は変わりますが、この時期の歌でひとつ言っときたいのが、笑っちゃうくらい加藤治郎さんのお名前が出てくるっていうことです。

  • 六代目加藤治郎が八代目岡井隆の頬打つ響き(61)  「『鼻血』のママ」
  • 「ジロー、チェンジ、キカイダー」と命じても「ううう」と呻く加藤治郎は(75)  「無条件コーンフレーク」

加藤治郎、だいぶロボットなんですよね。割合でいうと九割くらいロボット。でも一割、人間の部分が残ってて、その一割の人間らしさのせいで、交替させようとすると「ううう」って呻くばかりになっちゃう。だからロボットとしてはポンコツなんですけど、なんだかその一割の部分が人間・加藤治郎の良さをめちゃくちゃ輝かせている感じがして。穂村弘加藤治郎短歌、どれも楽しそうできらきらしていて印象的です。

◆2013〜2014 極東のアリスシリーズ
あえて別立てにしてるんですが、2013年から2014年にかけて穂村さんは「極東のアリス」というテーマでいくつか作品が発表されています。
私が入手できた中だと「極東のアリス」、「極東のアリス・2」、「歯」、「遠足」がこれに当たるかと思われました。

  • 目覚めよと香車にそっと口づける極東のアリスの光る黒髪(81)  「極東のアリス」
  • 金髪のアリスと将棋を指している窓の向こうに降りつづく花(82)  「極東のアリス・2」
  • 「この猫は毒があるから気をつけて」と猫は喋った自分のことを(84)  「遠足」
極東のアリスシリーズ、とても魅力的です。"まみ"ほどのキャラクター性はないけれど、アリスという永遠の憧れの少女、それに将棋とか俳句とか和のモチーフとが合わさっていて、奇妙でキュートな世界観が立ち上がっている。何か、蠱惑的な世界があって、これでもっとまとまって読みたいという欲望があります。

◆2014〜現在
2014以降からの作品は、テーマやモチーフに大きな変更は見られませんが、ひとつ「素顔の穂村弘的新たな顔」、と、めんどうな文法で書きますけど、その、いわゆる素顔っぽさが出てくるのが特徴です。

2011年にインタビューした記事で、『手紙魔まみ、わたしたちの引越し』にも載せたのですが、そのとき穂村さんが「かつての文体は非常にスタイリッシュ、二枚目的になっていた。けれど自分の自意識の在り方が変わって、本もいっぱい出せたし、ある程度そのままでもいいんじゃないかなって」というようなことを仰っていて。そのときに例えにあがっていたのは〈よかったら二枚着てください僕は旅館の浴衣が苦手だから 〉(62)、2011年の作でした。
あらためて見返してみると、こういった、等身大っぽい、素顔っぽい歌というのはその後も発表されているようです。

どこのブックオフでも穂村弘の本、ありそうですが。ちょっとこの自意識の持ち方っていままでなかったですよね。
この歌がいい歌かというとそうでもないんです。むしろ、ある程度の歌人で、自分の本が新古書店に売られてるよ……みたいながっかり感ってありがちだと思うんですけど、逆に穂村弘はそういう、現実の歌人でありエッセイも評論も書く売れっ子の「穂村弘」と、歌の中の主体が直結するような歌をほとんど書いてこなかったので、こういった素朴な感想みたいなものが逆に新鮮だった。

  • 坪野哲久になれない 十回に一回くらい受け取るティッシュ(100) 「五百円玉の夜」
この歌では坪野哲久っていうところがおもしろくて。だって、今まで穂村弘の短歌の中の主体は、坪野哲久への志向は、なかったじゃないですか。
今も本気でそっちに行こうとはしてないと思うし、これは冗談入ってると思うけど。街を歩いててティッシュを断りきれずに受け取っちゃうとき、なんかふっと「ああおれ、こんなんじゃ坪野哲久にはなれないなあ」って思うんでしょう。アラン・ドロンから坪野哲久ですよ。ものすごい方向転換です。
もう少し深読みすると、坪野哲久という人は政治思想的にプロレタリアの人で、短歌もプロレタリアでやっていた人で。私は坪野哲久について詳しく読んだわけではないのですが、政治的にも短歌にも非常に生身で取り組んだ人、という印象がある。
戦争があって、プロレタリア思想は弾圧されてしまうし、短歌史的にもうやむやになってしまうんだけど、その中でも抗い続けた人が、坪野哲久。
そこでなんでここで坪野哲久なのかというと、穂村弘という歌人の中に、なにかジレンマがあるように思えるんです。ニューウェーブのポップな口語体でやってきて、現在までにいろいろと自覚的に変化し続けてはいるものの、やっぱり根本的な口調はずっと同じところで来ている。これは、読者がそれを求めているというところも大きいのでしょうけれども。
その文体で、いまリアルに起きている震災や戦争や政治をどうやって詠うのか、という。その問題意識が、今現在の穂村弘作品の重要なテーマなのではないか、と、睨んでいます。

***

2003年から現在までの13年間の穂村弘作品を、ざっと見てきました。

今回のエントリは前編のあとすぐに出すつもりだったのですが、なんだかんだと時間がかかってしまって、時間が経つとなんとなく出しづらくなる気持ちがあったり、もっと正確に書かなきゃいけないような気持ちになったり、こう思ってたけどほんとはこうなんじゃないかという思考の滝壺にはまって出られなくなって、それでまた時間がかかり……というループになってしまいました。
ひとまず今日のところは、これで記事に残すことにします。ただ、穂村作品においてまだまだ掬い取れていない部分、分析できていない部分はかなりあって、そこは今後の私もやるつもりだし、例の近作リストや百首選やこのエントリなんかを手がかりに、誰かが取り組んでくれたらいいなと思います。
 
資料集めやリスト作り、かなりがんばったので、ぜひ使ってください。そしてそこから、どこかで新たな穂村弘研究が進んだら、それはすごく嬉しいなと思います。それでは。

穂村弘作品におけるテーマの変遷――近作評を中心として・1

先日10月16日、久真八志さんが運営されているかばんの勉強会(Kabamy)にお誘いいただき、レポーターをする機会がありました。

 

勉強会のテーマは「穂村弘を追いかける!」。その名の通り、穂村弘氏の作家研究的な勉強会です。私は「穂村弘作品におけるテーマの変遷――近作評を中心として」という題で、2003年に出版されたベスト歌集『ラインマーカーズ』以降歌集としてまとめられていない穂村弘作品を集め、その作品群を年代別に傾向を整理する、ということをしました。

 

当日の資料については、久真さんによりKabamyブログに掲載いただきましたので、こちらをご覧ください。
http://kabamy.jugem.jp/?eid=23
資料リンク:
2003年以降の穂村弘作品リスト→ https://drive.google.com/open?id=0BzxZ66iatJ96RVVEWGJDeEVlZmc
睦月都 穂村弘近作百首選→ https://drive.google.com/file/d/0BzxZ66iatJ96VVBhMUlPSjhPcmc/view?usp=drive_web
穂村弘作品リストについては、Twitterで協力を呼びかけ、有志のみなさまより提供いただいた情報をまとめました。ご協力いただいたみなさまに改めてお礼申し上げます。
※百首選の公開については、穂村弘さんご本人より許可をいただいております。

 

勉強会当日の発表では上記資料をもとに近年の穂村弘作品の紹介を行いましたが、この記事はその発表原稿をブログ記事用に若干の手直しをしたものとなります。

 

穂村弘氏は第一歌集『シンジケート』からそれに続く『ドライドライアイス』、「まみ」という少女から穂村弘に宛てた書簡集という設定の異色の歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(以下、『手紙魔まみ』)まで、歌壇のみならず一般層まで幅広い支持を得ている特異な歌人ですが、『手紙魔まみ』以降の短歌作品はその多くが短歌総合誌に掲載されているのみであり、現在のところ歌集等のまとまった媒体では目にすることができません。

そのために穂村弘は、現代短歌を語る上でなくてはならない人物ながら、歌集の長いブランク期間のために、とりわけ近作については断片的にしか語られていないように思われます。

 

今回私の発表した内容はあくまで約13年間の総ざらい、概観的な内容となります。当然これが全てではありませんが、膨大な作品群から抽出したキーワードはそれほど大きく外れていないのではないかと、また、そのように注意深く読んできたつもりです。
この資料を手がかりに、今後さらなる優れた穂村弘批評があらわれることを期待しつつ、ここに掲載いたします。

 

***

 

こんにちは、睦月都です。「穂村弘作品におけるテーマの変遷―近作評を中心に」というタイトルで発表させていただきます。よろしくお願いいたします。

本日は資料を2部配っています。1枚め、穂村弘近作リスト。これは2003年以降の穂村弘作品をまとめたものです。Twitterを通じて情報提供を呼びかけて、いろんな方からいただいた情報をもとに構成しています。そういったご協力により作られているリストなので、完璧に網羅できているわけではないんですが、短歌総合誌に発表されたものなんかはかなりカバー率高いんじゃないかな、と。
もう1部、穂村弘近作百首選です。
穂村さんは2001年の『手紙魔まみ』それから2003年のベスト歌集『ラインマーカーズ』以降、一冊も歌集を出されてません。さっきのリストをわざわざ集めたっていうのも、歌集さえ出てればこんな甚大な労力は払わなくてよかったんですけど……。
こういうのを作ったのは、一人の歌人の作品を、歌集に収録されていない状態で、いろんな雑誌に発表されるのを全部追いかけるのってほとんど不可能ですよね。私もこのお話を久真さんからご依頼いただくまでは、穂村近作ってほとんどノータッチで来ていて、もちろんたまたま買った雑誌に載ってたら読むけど、そのくらいでした。
だから、今日の参加者の方も『手紙魔まみ』までは読んでるけどあとはそんなに知らない、という方が多いのかなと思って、勉強会の資料としては多すぎるんですが、2003年以降に発表された計1000首を超える歌群のなかから、百首選んでみました。
ここでは私が気になった歌や良いと思った歌、良いとは思わないけど特徴的な歌などをピックアップしています。だいたい2~3年ずつにわけてそれぞれの年代の作品の傾向、モチーフ、テーマについて私が感じたことを書き出しています。
今日はこの「年次」と「テーマ、モチーフ」を補助線に、穂村弘作品のテーマ変遷を追いたいと思います。

 

◆2003年~2006年
この年代の歌は文体もスタイリッシュで、『シンジケート』のように恋人や女の子が出てきますし、『ドライドライアイス』のボニー&クライド風の、魂のフィアンセを希求するぎりぎりのきらめき、そういった青春のなごりがまだ漂っています。1番の〈観覧車に涙落とせばきらきらと回りはじめる愛のどうぶつ〉や、5番〈ビニールのパックに詰めたトマト・ケチャップをふたりのお守りにする〉の歌とかですね。
加えて初期穂村作品にも『手紙魔まみ』にも登場するエキセントリックな感覚や、空想世界の日常感とでもいうのかな。「穂村弘は誰も見たことがないものを、誰もが知っているもののように書く」と誰かが言われてましたが、そういった空想世界のすてきさ。
資料の補足に載せましたけど、東直子さんとの「回転ドアは、順番に」のあとがきで結構すごいことを書いてますよね。言葉の世界ではおれは自由なんだと。その感じがやっぱりここにも継続されています。

 

いいな、と思った歌は4の〈エレベーターガール専用エレベーターガール専用エレベーターガール〉。穂村弘特集を組まれた短歌ヴァーサス2号で穂村さんが30首連作を出していて、その中の歌です。

2〈飛ばされた帽子を追って屋上を走れば母の声父の声〉や3の〈サランラップにくるまれた父母がきらきらきらきらセックスをする〉も良い。「家族の旅」は父母が出てくるんですね。父母というのはたぶん、このへんの作品ではじめて出てきた。
さっき空想世界と言いましたが、その世界には父母って出てこないんですよね。なぜならそこはスタイリッシュですてきな世界で、たったひとりの「君」との心の交歓が歌のほとんどすべてだから。
これは一般的な話でもあるし、穂村さんもたびたびエッセイでおっしゃってますが、やっぱり「父母」ってダサいじゃないですか、ふつうの感覚でいうと。だからこれまでの穂村ワールドに現実世界的な父母は出てこなかったんだけど、このあたりで初めて登場します。
「家族の旅」は非常に良い連作で、好感が持てました。〈帽子を追って……〉は寺山修司の〈ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん〉ですけど、サランラップの歌とかも、父母を対象化していて冷静ですよね。対象と距離をとって癒着していない。この冷酷さとモチーフのポップさが、やっぱり"正統派ほむほむ"の歌だなあ、という感じを与えます。

 

9〈電車のなかでもセックスをせよ戦争へゆくのはきっときみたちだから〉は印象的な歌で、これはあとで言いますが、最近の歌でよく「戦争」というワードが出てくるんですね。最近の歌とここで言われている戦争はもちろん違うのだけど、非常に本当なんですよね、つねに。だから恐い。
「戦争」と「セックス」って軍国的な取り合わせですけど、これはそれを推奨してるんではもちろんないし、しかも批判とも言い切れない。
ただこの現代の見えない息苦しさ、近代やそれ以前に比べて社会は急進的にどんどん便利になって医療も発達して生存率も上っているのに、反面、人間個々の在り方は非常にやりにくくなっている側面がある。そういうことを穂村弘は歌論の中で繰り返し言っていて、そういったところから生まれた言葉なのかなあ。言葉の隅々まで非常に本気ですよね。本当に「電車の中でもセックスをせよ」と若者に言うわけじゃない、なのに、本気度がものすごい伝わってくる。
もっと最近の歌で、伊舎堂仁さんが〈ぼくたちを徴兵しても意味ないよ豆乳鍋とか食べてるからね〉という歌を出されてたのを思い出します。

伊舎堂さんはたしか私の2歳上で28歳くらいの方ですが、もしかしたら伊舎堂さんは穂村さんのこの歌を意識して作ったんじゃないかな。年齢的にも内容的にも対応しているようで、興味深く取りました。

 

◆2006年後半~2008年
百首選にはこの時期の歌をほかよりかなり多く取っているのですが……。

これは私の好みとかじゃなく、というか、どっちかというと問題作が多いです。ただちょっと作風的にあまりにも急ハンドルを切ったので、論じるには取らずにいられなかった。それにまた、強烈に印象的な歌が多いのもこの時期です。

具体的に見ていきましょう。2006年から2008年に発表された歌は、主体がこどもの歌が圧倒的多数を占めます。モチーフが子どもなのではなく、視点そのものが子どもで、しかも、口調さえもこども”的”なところに寄せていくんですね。
山田航さんがブログ『トナカイ語研究日誌』で、穂村弘のこの時期の歌について、「グロテスクなノスタルジー路線(http://d.hatena.ne.jp/yamawata/20090503/1241355249)」「穂村弘が目指しているのは実はホラーなのかもしれない(http://d.hatena.ne.jp/yamawata/20100117/1263735381)」と書かれているのですが、まさにそんな感じ。非常に気持ちの悪い歌が続きます。

 

穂村弘は2006年1月から2年間、短歌研究誌上で作品連載をしていました。これは1作30首、3ヶ月に1回の頻度で作品を発表していくもので、このうちの連載第5回「楽しい一日」で2008年の短歌研究賞を受賞されています。

さきほどのグロテスクな子ども主体、という傾向はその「楽しい一日」あたりからが特に顕著です。資料では21~24の歌。もう、明らかに文体が変容してますね。〈女には何をしたっていいんだと気づくコルクのブイ抱きながら〉(『シンジケート』)の声とは声音が1オクターブくらい違う。
22〈オール5の転校生がやってきて弁当がサンドイッチって噂〉は面白いですね。ここ数年くらい、穂村さんが何度も引いている歌で、〈ハブられたイケてるやつがワンランク下の僕らと弁当食べる(うえたに)〉って歌がありますけど。その歌はたぶん高校生くらいですけど、こっちのサンドイッチとかもなんか、学校という特殊環境の中の、毎日繰り返される「弁当の時間」という儀式におけるある種の視点。転校生という圧倒的な他者への排斥意識みたいなものもうっすら感じられて恐ろしいです。エッセイを読んでいると実際には穂村さんがよく引越・転校をしているから、そういった記憶も関わるのかもしれません。
「サンドイッチ」というチョイスも目を引きます。自分が子どもだった昭和期における、サンドイッチとかコーンフレークとかスパゲッティとかの、外来の目新しい食べ物。これらは子どもにとってすてきでおいしい食べ物なんだけど、インベーダー的な得体のしれなさが常につきまとっているらしい。と、実際にこれらの食べ物が普及したのがいつなのかとかちゃんと調べてませんが、穂村さんの歌を読んでると、横文字の食べ物にどことなくそういった得体のしれなさを感じます。
23〈あいつだよあいつこないだ学校のトイレでうんこしてたんだって〉、それからまた別の連作ですが、27〈留守番の炬燵の上で人形のスカートめくりパンツをおろす〉、29〈ポッキーをぺろぺろ嘗めてプリッツにして元通りしまっておいた〉……。
……これらって、"子どもあるあるネタ"じゃないですか?すくなくとも「個」の「我」がはっきりと世界の中からその瞬間に掴み取った感覚ではなく、既に流布しているイメージ、既存のあるあるネタをそのまま書いてますよね、57577で。漫画なんかでこういったシーンを見たことがあります。
「生の一回性の輝き」とか、言うじゃないですか、『短歌という爆弾』で。この生がたった一回限りであるという実感が歌を詠わせるのだとしたら、なんでこんな既存のイメージを持ち込むんだって、なかばイライラしながら読んでました。私は。
ある意味こういった当時の子どもの声そのままといった歌があることで、時代が明確に違うということを説明してますし、それに、気持ち悪さが強調されてるし。だから、一概に悪いとも言い切れないんですけども……。
私はこの時期の歌の作りについてわりと批判的で、やっぱり、作者の表現したかったことに対して景が歪んでると思うんです。手法にイメージがはまりきってない。それは短歌の可能性の提示としてとることもできるんだけど、やっぱり、成功してないんじゃないかな、昭和的感覚を説明するために昭和あるあるネタを持ち出すの。ということは考えています。

 

この時期の歌を読んでいると繰り返し繰り返し出て来るモチーフや舞台があって、まずは小学校。

その中で、授業中の歌ってぜんぜんないんです。小池光さんの歌に〈蟻潰す机上にありて数式はみなやすやすと解かれゆきたり〉(『バルサの翼』)とか、これもたぶん子ども時代を思い返して書いているのかな、そういう歌がありますけど。穂村弘の子ども視線の歌には授業中の風景ってぜんぜん描かれてこない。

繰り返しにはまず、「遠足」がすごい出てきますね。遠足、最近までずっと出てきてるんですけど。それに付随して「美しいバスガイドさん」が何度も登場します。百首選の中だと30〈2号車より3号車より美しい僕ら1号車のバスガイド〉それから59〈バスガイドさんに手紙を書くための万年筆を買いにゆく旅〉。

学校で言えば「先生」が出て来ることも多いです。そして「夏休みの登校日」。
「楽しい一日」の受賞後第一作として書かれたのが「チャイムが違うような気がして」(百首選38~41)という50首連作なんですが、学校を取り扱った、先程言ったような子ども視点の気持ち悪さというのはこの連作でピークに達します。

この連作の季節は夏なんですが、カブトムシ取りに行ったりとかプールに行ったりとかせず、シチュエーションに夏休みの登校日が多いんですよ。それが妙に暗くて気持ち悪い。
ただなんとなく共鳴するイメージが私の中にもあって、いつもは生徒もいっぱいいるし、そんなことあんまり感じる暇がないんだけど、休み期間の学校とかって妙に暗くて静かで、怖い。廃墟みたいなかんじ。廃墟や休み期間の学校って、そこには過去に人間がいて生命活動を繰り広げていて、建物にその記憶が残っているから、その非在を際立てているんだと思うんですけど。そういう気持ち悪さを肌で感じる連作です。

 

学校でないところだと、家庭のことがよく描かれています。炬燵が出て来ることが多いですね。
この中には入れてないんですが、「火星探検」という2006年の連作で、〈ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵の中の火星探検〉、また2010年の「新しい髪型」の連作では〈クリスマスの炬燵あかくておかあさんのちいさなちいさなちいさな鼾〉など、団欒の中心地点としての炬燵がさまざまな場所に出てきます。
わたしは実は「火星探検」は入手できておらず未読なのですが、この一連は亡くなったお母様への挽歌とのことで、山田航さんもブログの中で「穂村弘という歌人の大きなターニングポイントとなった作品」(http://d.hatena.ne.jp/yamawata/20090503/1241355249)と評価されています。
母への挽歌と赤色の取り合わせだと、どうしても斎藤茂吉寺山修司がぱっと思い浮かびますが……。ともかくこれ以降、穂村弘は子ども視点で、家族のことを繰り返し繰り返し歌うようになります。

 

これらの「子ども視点の昭和の歌」の群で共通して見られるのが、レジュメにも書いてますが、完全に子ども、完全に昭和じゃないんですよ。ほとんど必ず、大人としての自己や現代のモチーフが紛れ込んでくる。自己と世界線が奇妙にねじれてゆがんでいるんです。
「楽しい一日」もほとんど全編子どもの歌なのに、最後のほうの歌に〈母のいない桜の季節父のために買う簡単な携帯電話〉という歌がある。
「にっぽんのクリスマス」は遠足の歌が多いんですけど(百首選25-26)、子どもの遠足の歌が続いたのに最後の一首が〈妻とゆく遠足にして「虹と雪のバラード」だけが鳴り響く町〉と。どうも過去の遠足の記憶と、結婚もして40代の作者の現在の風景とがオーバーラップしている。電話の混線や電波の悪いテレビみたいに、ときどき変な声、変なイメージが混じってくる。
それから、自分ではない目の前の子どもがおじさんだったとか、老人の顔とか、そういうテーマの歌も非常に多いです。この時期で引いているのは32〈ふりかけでお昼のご飯食べているおともだちには髭が生えてる〉と40〈一年生になったら一年生になったらと歌う子供の顔が老人〉。

こういった現象についてひとつ考えられるのは、書き手の「我」と主体および発話者の「子どもの我」とを同一化させようとすることの、無理が出ているのではないかということ。実際には40代で現代に生きている、コンビニで菓子パンを買ってヤフオクに夜中まで張り付いて腕時計を落札する、現実にはそういうことをしている作者が、歌の中では子どもとして昭和時代を再経験しようとしていることの無理が、自分だけじゃなく、登場人物や周囲の景も歪ませてしまっているんじゃないか、と。
だから、これはめちゃくちゃホラーなんです。よくSFのタイムパラドックスで、過去に人を死なせてしまったとか、恋人を失ったとかして、その過去を回避するためにタイムマシンで過去に戻ってなんとかしようとするの、あるじゃないですか。あれってたいてい失敗してどうあがいても同じ未来になるか、あるいはもっと悪い未来を招いてしまう……というのが定石ですけど。それに似てる。
穂村弘は、短歌という「私」の詩型を逆手に取って、短歌によって「子どもの私」を再規定し、何度も昭和の、まだお母さんが生きている子ども時代を生きなおそうとしている。それはある部分ではうまく目的を果たせているようなんだけど、どうしても風景や人やどこかに歪みが出てしまう。考えすぎかもしれませんが、この時期の歌にはそういった無力さや絶望も感じ取れます。

 

***

 

長くなりましたので、続きはまた後日投稿したいと思います。

次回予告、穂村弘にとっての震災と戦争、少女的モチーフへの回帰など。もうしばらくお付き合いください。